榎本武揚が植えたとされる「武揚松」は今なお知内町で生き続ける
武揚松とは
知内町に彼の有名な「榎本武揚」が植えたとされる「武揚松」という黒松があるのをご存知でしょうか?
徳川幕府において海軍副総裁を務めていた榎本武揚。
1868年4月、江戸城開城に伴い薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)ら率いる新政府軍側より旧幕府艦隊の引き渡しを要求されましたが榎本はこれを拒否し脱走、後に一部を引き渡したものの、尚も新政府軍側に抵抗を続けました。
その後、館山藩の陣屋を砲撃し、旧幕府方勢力の輸送を行うなどした後、8月には旧幕府艦隊(8艦)を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟支援のため仙台に向かうも、9月に仙台藩が降伏。
これを見た榎本は松平定敬(桑名藩主)、大鳥圭介、土方歳三らの他、旧幕臣や仙台藩脱藩兵など約3,000名を収容し、10月に仙台を出航。
新政府軍に対して、旧幕府軍の救済とロシアの侵略に備えるため、蝦夷地開拓に関する内容の嘆願書を提出しています。
そして榎本は「蝦夷共和国」樹立のため、希望の地「蝦夷地」(北海道)へと向かいました。
(榎本武揚|by.Wikimedia Commons)
鷲の木(森町)に上陸した旧幕府軍は各地で新政府軍を撃破し、箱館に進撃します。
10月26日に五稜郭を占領し、この時に行われた選挙によって榎本武揚が総裁となっています。
その後、松前藩との共存に向けて調停を行おうとするも、松前藩側が旧幕府側の使者を処刑し破綻。これを受けた旧幕府軍は松前藩討伐を決意し、土方歳三を隊長とした松前攻略軍(約700名)を編成、現在の国道228号線を西進します。
10月29日に木古内市街に入った土方軍は本陣を設置し、同日は知内に宿営。
この時矢越方面から上陸した松前藩の兵に夜襲をかけられた「萩茶里の戦い」がありました。
その後、幾度かの松前藩軍との交戦がありましたが、旧幕府軍はそれらを突破、11月5日に松前へと入り、松前城を制圧しています。
そして12月15日、榎本を総裁とした旧幕府軍勢力は蝦夷地平定を宣言しました。
(武揚松石碑|石碑左上方が武揚松)
尚、松前藩討伐においては、総裁であった榎本本人も開陽丸・蟠龍・回天などの艦船を従えて参加しています。
「武揚松」は総裁であった榎本自身が木古内本陣と知内の宿営地を繋ぐ「中の川」の地に上陸し、戦勝の祈りを込めて植えたものなのかも知れません。
今となっては榎本の真意は分かりませんが、個人的には松前藩に勝利するという意味で「黒松」(松前藩に黒星をつける)を植えたのではないかとも考えています。
武揚松を探索!
事前に調べては向かったのですが、武揚松の探索は難航を極めました・・・。
現地に行けば「ああ!これがそうだわ!」と簡単に拝めるような生易しいものではありませんでした(笑)
上にある石碑の画像を見て頂ければお分かりになる通り、いろんな木がワシャワシャと生えていて正直どれがどれだかまったく分かりませんでした(泣笑)
そもそもこの石碑自体、国道沿いには立っておらず、時間をかけて探して探してようやく辿り付いたという次第です。
函館方面から向かわれる方は、右手に見える「小林商店」を過ぎて「中の川橋」を渡ってから直ぐ右の道に入って下さい。
その後、民家2軒(右側)を過ぎると右手に見えてくるのが武揚松の石碑です。
(石碑の周りには雑草が生い茂り、少し切ない気持ちになりました・・・)
尚、小林商店の方に承諾を頂くことができれば、お店の裏側に回って間近で見ることもできるかと思います(あくまで自己責任でお願いします)。
榎本武揚。彼の理想は現実のものとはなりませんでしたが、
今なお、知内の地で生き続ける「武揚松」。
榎本が知内町に上陸した「痕跡」であると共に、旧幕臣の忠孝を現代にまで伝える貴重な「魂跡」として後世まで残して貰いたいと強く願います。
住所・地図・アクセス(北海道新幹線木古内駅より)
◇住所|北海道上磯郡知内町字中の川64
◇アクセス|北海道新幹線「木古内駅」より4.4km、車で約8分。
注.小林商店裏(地図では小林造船所)