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木古内町の歴史(1)~戊辰戦争の激戦地

   

(木古内駅|2016年5月16日撮影)

木古内の町名は「リル・オ・ナイ」(潮の差しこむ川)または「リコナイ」(高く昇る源)というアイヌ語が転化したものだと言われており、寛永年間(1624~1643年)松前藩が全島の地図をつくらせた際につけられたものだとされています。

 

遺跡からは旧石器時代の石器が出土

同町の人跡は古く[新道4遺跡]からは旧石器時代の細石刃文化の石器が発見されており、石器の生産に関わる製作跡であることが確認されています。
また、大平遺跡では縄文時代前期後半期の集落が発見され、その集落からは50軒を超える住居址も見つかっています。他にも縄文時代早期から晩期、擦文時代の遺跡も多数発見されており、中でも中心は縄文時代前期後半のもので、実に100万点近くもの土器が見つかっているそうです。

 

15世紀の和人来住から戊辰戦争まで

さて、時は変わり1433年(嘉吉3年)木古内に初めて和人が来住し、同地域は徐々に発展を遂げてゆくことになります。結果、この15世紀当初には多くの館が築かれました。その後、道南の和人が集落を形成していったことから、住民を守るための[道南12館]が築造されています。
1457年、木古内の中野館は和人の小豪族であった佐藤李則が館主を務めていましたが、同年に勃発したコシャマインの戦いで破れており、以降は松前藩主松前家の前身である蠣崎氏が勢力を増し、後に松前藩を築いてゆくことになります。

話を戻します。1799年(寛政11年)には幕府の直轄地となり、山本長右衛門が初めての名主になりました。
安政年間頃、木古内に御手作場が設けられたことにより、明治以前から多くの和人が移住してきたようです。

1858年、開墾農夫取立方として大友亀太郎と新妻助惣が木古内村開墾取扱を命ぜられ、以降、田畑の開発と農家の入植が進められることになります。

その後の1869年、木古内周辺は戊辰戦争の戦場となります。特に木古内の北に位置する薬師山では壮絶な激戦が繰り広げられ、旧幕府軍であった大鳥圭介が山頂から白馬にまたがって指揮を奮ったといわれています。

 

北海道新幹線開業を契機に「次の未来へ~」

(photo|Author:Yurinokuni|FileName:日本、北海道、木古内町(1).jpg|by.WikimediaCommons)

このように木古内町の歴史は知れば知るほど興味深く、非常に多くのドラマや歴史の上に、今の木古内町の姿が形作られたことを物語っています。

そして今後、木古内町は北海道新幹線の玄関口として、また新たな歴史の1ページを開いていくことになります。
未来の人々に語り継がれるような新たな歴史を綴ってゆくことができれば、同町のみならず北海道全体においても、より素晴らしい未来を切り開いていくことができるものと考えます。

当ブログ[ライズ北海道]は木古内町を含め、全道各地の食と観光を中心とした情報を発信しながら、同町の振興を応援していきたいと思います。

末永くご愛顧の程よろしくお願い致します。

<出典>
木古内町公式HP
日本辞典
木古内町
大友亀太郎
史跡訪問の日々

 - 北海道観光情報